しばらくぶりの更新。この間桜が開花し、にわかに満開になり、はや散り始めている。すぐに季節は一気に新緑のころとなる気配だ。
先週末、久しぶりに伊豆へ旅した。花冷えの伊豆の里の桜は、まだこれからというところだったが随所に花見の人々を集めて華やいでいた。私はといえば、ひたすらホテルの室内プールで身体をリフレッシュ。つかの間の休息である。昔のフランス映画、確かB・バルドーの出ていた「戦士の休息」をなぜか思い出したが、水に浮かぶまどろみの時間の中で、はたしてオレは今も戦士なのだろうか、と想った。じっとわが身体を視る。
夜、旅先のテレビでも、やはり戦争報道に目が向く。兵士が住民がジャーナリストがうごめき黒鉛が上がる戦場の都市に、今咲く花はどんな花なのだろうか。
帰京してすぐ、父の3回忌の法要。兄弟、親戚、懐かしい顔が集まる。昨年癌と戦った母が元気な顔を見せてくれる。「7回忌には来れるかねえ」そんな声が高齢の叔父叔母から漏れる。父もそうだがこの年代は関東大震災、太平洋戦争、といった幾多の苦難を乗り越えてきている。戦争が終わったら終わったで、懸命になって、自分のことはさておいて、ただ子どもたちのお腹を満たしてやりたい、その一心でがんばってきた。この人たちにとっては、ずっと人生、戦場であったことだろう。
コンベアに上りくる土夜もひびき 黄の安全帽は地下に触れ合ふ」昭和37年、宮中の歌会始(御題「土」)に、父はこの歌で入選した。新年の皇居に父はモーニング姿で出かけて行った。父慶任(よしひで)生涯の誉れの日である。昭和37年といえば、戦後の復興が軌道に乗り、未曾有の高度成長に日本中が沸いたころである。都市のあちこちで昼夜を問わず建設、地下鉄工事の音が唸り声を挙げていた。そんな、力強い時代を詠んだ歌だ。4人の子どもを抱え、自身も病弱な身体に鞭打ちながら働きに働き、生涯終わることのない戦場であったはずなのに、父は人生にいつもこの歌のように、希望を見ることができる人だった。一度として子どもたちの前で弱音をはかず、誰にも優しく、いつも笑顔だった。
父は戦争にも行った。左脚のすねに弾痕とケロイドが残っている。その負傷のため戦地から帰国することができたが、所属していた部隊はその後全員戦死した。「戦争だけはいやだ」こうポツリと言ったが、生涯戦争体験について父はそれ以上語ろうとはしなかった。生きられること、ただそれこそに、感謝できたからこそ、父は苦難もすべてを受け入れて優しい人であったに違いない。父の大きさに肩を並べられる日は来るのだろうか。
(S)
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