大量破壊兵器と銃社会

イラク戦争終わった様子だ。大量破壊兵器を隠し持ってると疑われ、国際世論に追い詰められた国が、同じ(アメリカの)大量破壊兵器に完膚なきまでに叩きのめされたという図である。皮肉な話だ。デイジーカッター、精密誘導爆弾等々、アメリカの持つ大量破壊兵器のすさまじさばかりが目についた戦争だった。今度の戦争により、善の枢軸の国は大量破壊兵器を持つことは正当だが、悪の枢軸といわれる国は大量破壊兵器を持つことはまかりならぬ・・・そんな新しい世界秩序ができあがったようである。

ここで、もう10数年前にアメリカで起きた、ある事件を私は思い出した。アメリカに留学中の日本人の青年が、ハロウインで仮装して一般民家を訪れたとき、「フリーズ」(立ち止まれ)という言葉がわからなかったため、不審者の侵入と勘違いした住民に銃で撃たれ死亡した事件だ。日本でも大きく報じられ、正当防衛の是非、銃保持の是非をめぐって日米間の国際問題にもなったので、ご記憶の方もいらっしゃると思う。ご両親が発砲した米人を訴え、長い裁判の果てにすでに事件としては結審している。が、ここで、我々日本人が目の当たりにしたのは、個人の自由・安全・生命を守るのに銃の保持、使用は正当な権利である、というアメリカ社会だった。

そのアメリカで、今年、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞をとったのは、アメリカの銃社会の問題を批判した作品(マイケル・ムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」)。銃社会のシンボルともいえる全米ライフル協会の会長でもある俳優チャールトン・へストンにロングインタビューするなど、銃と犯罪、暴力を問うた意欲作だ。アメリカにあっても、この銃問題が、依然として深刻な社会問題としてあるということがわかって、なぜかほっとしているが、私はこの個人の銃保持の問題と、国家としての大量破壊兵器保持の問題とが、根底でリンクしていると、思えてならないのである。

9.11以来、正当防衛にとどまらず、今や先制攻撃の正当性まで堂々と語られ始めている。いや、現にイラク戦争は、大量破壊兵器がイラクという国家のみならず、テロ国家、テロ組織に流出し、自国民に危害を及ぼす恐れがあるという前提で、その先制攻撃がなされた。心配するのは、この国家としての決断が、銃社会アメリカの個人としての先制攻撃の正当性へとリンクし、エスカレートしはしないか、という点なのである。国家としての論理は、容易に市民の論理に置き換えられる。戦争という大量破壊と殺戮は、人々の心を荒廃させ恐怖心を加速させる。あいつが俺を殴りそうだから、先に殴るのは正当な権利だ・・あいつが銃を持っているのは俺を打つために違いない、だから先に撃ってもいい・・そんな理不尽な考えがまかり通る時代が来なければいいがと、私は危惧するのである。
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