ケイタイの進化は止まらない。写メール、Iショット共に100万画素時代に突入するという。デジカメが売れなくなるのではという声もあるが、パソコンも深刻だろう。先日のソニーの株価の急落も、VAIOの不振が引き金だった。わざわざパソコンを購入しても、設定やら接続やらが面倒だし、家で親にのぞかれるのもうざい。若者はこうしてモバイル(ケイタイ)になびいていく。
我が家でも、高1の息子、中2の娘、私、家内と、一家に4台(支払いオトーサン)の時代である。家族の何かのときの緊急連絡に、と始まったケイタイコミュニケーションだが、圧倒的に子どもたちのなくてはならないツール(おもちゃ)になってしまった。朝から晩まで、友達とのメールのやり取りに明け暮れている。電話なのに、ケイタイで会話しているのをまず見たことがない。ただただメールのやりとりのために存在する。(これって、電話?)一方、近頃の若者は文章を書かない、と嘆く向きもあったが、ケイタイメールは個性的で、文章力、ていうか、表現力が問われる。たまに送られてくる娘のメールの文章力に仰天することがある。きっと、短い字数で伝えるテクを覚えたのだろう。これはこれで、なんとかの功名かもしれない。
そんな折、FM放送で、名前は失念したが、アメリカ在住の日本人クラッシク演奏家のインタビューを聴いた。彼女は、年に何回か日本に帰ってくるのだが、そのたびに携帯電話の普及に驚いているそうだ。そして、驚きはやがて疑問となる。アメリカと違い、こんな狭い都市で、ビジネスでもないのに、会えるのになぜ会わずに、わざわざケイタイでばかり話をしているのだろうか、と。また、見知らぬ男と女が、出会いの手段にもしていると聴いてさらに驚く。「メール、携帯電話も、私はあえて持つ必要を感じません。仕事も、人との出会いも、それらがあった方がスムースにいくし、便利だよ、と人は言いますが、遠く外国にいても、それがなくとも、人生の中で、出会うべき人にはきっと出会えると思うし、意味のある仕事にもきっと出会えると、私は信じています」
彼女の、こんな考えが、私には久々に、まっとうに胸に響いた。ケイタイ、インターネットの登場は人と人との関係性を大きく変えた。人と人との出会いについてもそうだ。時として、便利なつながりをOFFにする勇気が、彼女の言うように、真に出会うべく人・事に出会える機会をもたらしてくれるのかもしれない。「ケイタイない生活なんて考えられなーい」「ケイタイ取り上げられたら、シンジャウかも」なんて、街のオンナのコたち。大人も含めケイタイ中毒一歩手前の日本人への警鐘と受け止めたい。
(S)
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