内視鏡検査日記

自慢じゃないが、僕はずっと医者嫌いである。50代になった今日まで、歯医者に一度、まったく動けなくなるほどのひどい腰痛で一度、それと、咳が止まらず夜も眠れず、これは喘息発作かと疑ったときの一度くらいが、まともな通院の記憶である。いずれも、痛み苦しみを耐えに耐えた挙句、どうしても我慢できない、というときだけである。健保組合からしてみれば、優良組合員である。国家の医療費にも貢献大。健康を感謝しなければならないが、結局、ものぐさなのと、あれこれ身体をいじられたり、薬を飲まされるのが大嫌いなだけなのであるが。
そんなたたりか、仕方なく受け始めた年に一度の人間ドッグで、胃カメラの再検査の羽目になった。喘息症状が出るほど、私ののどは過敏である。錠剤も水がないと飲めないほど(まるでコドモ!)。そののどを通って内視鏡を食道、胃、十二指腸に入れると想像するだけで、思わず、オエッとなる。ああいやだ、どうしよう・・悩んだ挙句、俺の身体は俺一人のものじゃないんだ、愛するもの、妻子、会社のためにも、ここは受けなくちゃならないんだ、と言い聞かせ、覚悟を決めてベッドに横たわった。のどの麻酔のためという、ゼリー状のものを事前に含ませられていたが、のどの奥を探して、チューブの先端が走り回る辺りから、この世で体験したことのないような気分に陥った。

のどから、食道にそいつ(まるでエイリアン)はぐいぐいと生き物のように入ってくる。異物を察知した僕の身体は、激しく激しく、それを押し戻そうと抵抗する。苦、苦しい。激しく咳き込むワタシ。「大丈夫ですよお、苦しいですねえ、でももう少しですよお、我慢しましょうねえ」・・まるで小児科医が子どもに諭すように優しくおっしゃる医師、背中をさする看護婦さん。けれど、内視鏡はかまわず奥へ奥へ。マウスピース状のものを必死にくわえて耐える。食道を通過し胃へたどり着いたあたりで、やっと人心地つく。横たわった身体の顔の前に、モニターがあり、僕の身体の中が映し出されている。医者がここが何々ですよ、ここに何々がありますね、と説明しているが、とても落ち着いて正視できる状態ではない。その時間、20分くらいだったろうか。やっと、管が身体から引きずり出される。終わった、という安堵感と、もう二度とこの検査は受けるまいと、怒って誓う私。大げさ?確かに、何度も内視鏡を受けたり、私は平気、とおっしゃる方は多いと思う。でも、私はダメ。医者嫌いはますますひどくなりそうである。
けれど、その晩のこと。ベッドに身体を横たえていた私は、突然、あのときカメラが映し出した、食道やら胃やらの映像がヴィヴィッドによみがえってきた。それは、決して、姿見の鏡に映し出されることのない、この手で触ることのできない、初めて見る、もうひとつの「自分」の姿だった。この時、私は生まれて初めて、自分の身体(肉体)を現実のもとして「実感」できた気がした。幸いにも、今日まで、手術を受けたこともないし、大病をしたこともない。だから、己の身体は抽象的な概念で実感はなかった。しかし、実際、手術や、大病されたり、現に病気と格闘している方々は、この現実の肉体としての己と、日々向き合っていらっしゃるわけである。いつか私にも、その日が来るのだと思うと、もう一つの、生々しい自分の身体と、これからはきちんと向き合わねばいけないと、神妙に思ったものだ。早晩、あの内視鏡検査を何度も受ける日はくる。それどころか、もっと苦しい、つらい検査や治療もあるだろう。イヤだなんて、言ってる自分は甘ちゃん、だと。

決意のほどは、やがて試される。・・ところで、あれ以来、困ったことがひとつ。モノを食べたり、飲んだりするときに、モニターで見た、もうひとつの自分の肉体に入っていくんだ、という不思議なリアリティ、実感が残っている。その感覚、こわごわ、という感じがいまだに抜けない。グイッと、生ビールを一気に、なにも恐れず身体に流し込んでいたあのころが懐かしい。
(S)