クラス会の宴

東京は葛飾区と足立区の境にある西小菅小学校。今から40数年も昔、幼き日を私はそこで過ごした。団塊の子沢山の時代である。なんと一クラス53人。同学年で6クラスもあった。合計特殊出生数が1.29、少子化が深刻化し、公立小中学校が統廃合される昨今では想像もつかない、のどかでにぎやかな時代だった。みんな貧しかったけど大いに遊び、毎日がほんとに楽しかった。草野球、ザリガニ取り、ベーゴマ、缶けり、草すべり、学校給食は脱脂粉乳にコッペパン、洟垂れ小僧が普通だった。 その小学校6年生のクラス会が、いい幹事を得たおかげで、50半ばを超えた今日までずっと続いている。この歳になって小学校のクラス会は珍しいと思う。この6月12日、4年ぶりに、その6年1組のクラス会があった。4年ぶりというのにはわけがある。

我々はいつしかオリンピックの年にクラス会を開くと決めた。毎年は集まれない、次回が未定ではなんとなく集まるきっかけがなくなってしまう。4年に一度オリンピックのある年にというのは分かりやすい。アテネオリンピックのこの年、そろそろクラス会の連絡が来るなと思っていたら、来た!今回は53名の級友のうち28名が参加した。遠く金沢からも参加した輩もいる。みんないいオジサン、おばさんである。が、会った瞬間みんな遠い昔のあの頃にワープする。忘れていた懐かしき思い出、原風景がよみがえる。その夜、酒を飲み歌い饗宴はいつまでも続いた。

50も半ばを過ぎると、当たり前だが、この4年間にそれぞれにいろいろとあったことが分かる。もう孫ができたと満面の笑顔のシアワセ者もいれば、55歳で肩たたきにあった者、会社が倒産し、残った従業員のリーダーとして木刀片手に会社に泊まり込み、悪質な取立て屋と闘った者、中学教師として荒れはてた学校で孤軍奮闘している者・・人生さまざまだが、こうして集まれた者はまだよいとして、53名もいれば音信定かでない者も多々いる。皆激動の日々を必死に生き抜いて来たのである。

気がつくと、次回のオリンピックは2008年の北京。ということは、皆同じく61歳になっている(同級だから当たり前だが)。そこで、誰彼となく、次回は1年早い3年後、プレオリンピックの年に集まろうということになった。「60歳か・・」ピンとこないが、昔なら還暦で赤いチャンチャンコを着る歳である。皆、リボンでもスカーフでも、何か赤いものを身につけて集まることを決めた。その年、勤め人のほとんどは定年を迎える。今度はフリーターシニアのクラス会だ。どこに集まろうと、一時、その街の平均年齢を上げることだけは確かである。これから3年、皆まだまだしたたかに生き抜かなくてはならない。また幼なじみに再会できることを願って、各々帰途に着いた。
(S)