この年の瀬に佐野眞一氏の「小泉純一郎―血脈の王朝」(文芸春秋)を手にする。「東電OL殺人事件」やダイエー中内功を描いた渾身の評伝「カリスマ」等と比べると、小品ではあるが至るところに佐野節が健在で、小泉純一郎をめぐる因果、血脈の特異さはさておくとしても(私自身小泉純一郎にまったく興味がない)、小泉を生んだ現代日本の政治状況、時代の危うさと不可解さを的確に描いて、溜飲が下がる思いがする。
佐野氏が指摘するように、小泉首相に斬新さがあるとすれば「自民党をぶっ壊す」「抵抗勢力」「聖域なき構造改革」「感動した!」「郵政民営化」と紋切り型のワンフレーズポリティックスに象徴される政治手法にあるだろう。テレビメディアを意識した上で次から次へと繰り出される言葉の速射砲は、前任のいかにも大衆受けのしない古い自民党政治家である森総理に比べ、何から何まで新しくかっこよく見えたし、大衆を飽きさせなかった。しかし、二期目に入り、掲げた政策はすべてが尻切れトンボで改革の実にとぼしいことが露呈してきた今、その舌鋒にも陰りが見えてきた。考えてみれば、自民党をぶっ壊すならば小泉+野党の新党結成で、いつでも自民党政権は壊滅し得たのである。が、小泉は自民党を出なかった。元より出る気もなかった。自民党をぶっ壊す発言、抵抗勢力への挑発は、確たる永田町での政治基盤がなかった小泉にとって、大衆を味方につける手立てでしかなかった、ということでもある。大衆は小泉の大芝居に酔いしれ、結果、自民党、特に最大派閥経世会はとことん追い込まれることになったが、よくよく眺めてみれば、依然として(連立とはいえ)自民党政権は続いているのである。そればかりではない。大衆が国会ワイドショーに呆けている間に、健保、年金、増税、自衛隊イラク派遣、問題企業の再生機構送りの連発と、重要事項はほとんど無風で国会を通過した。結局勝利したのはしたたかな官僚だけであったのではなかったか。
ワンフレーズの風潮は巷をも覆っている。言葉、事象の存在はますます軽いものとなり、メディアで増幅されるやあっという間に消費される。一億総健忘症の相。怒りも喜びも感動も、すべては瞬く間に忘れ去られる。年末を飾る恒例の今年の10大ニュースも流行語大賞も、その大半はすでに遠い昔の出来事に思える。ハルウララ騒ぎも、華氏911も、すでに語り手を失い、未納三兄弟で始まった年金問題、道路公団民営化騒動も、根源的な大問題であったはずなのに、すでに忘却のかなただ。エキセントリックに言葉・事象・事件は飛び交い、消費される、それもすさまじく早いサイクルで。
苦節一代、100円ショップビジネスを創出したダイソーの矢野社長は、経済誌で「21世紀は引き潮の時代」と述べている。けだし名言と思う。今日目の前にする混沌は、経済であれ、政治であれ、すべてが上げ潮だった20世紀の潮目が引き潮に変わりつつある前兆であると氏は言うのだ。上げ潮に乗りすべてが右肩上がりだった20世紀には、産業が飛躍的に伸び、前世紀に比べ雇用も所得もはるかに豊かになった。社会主義はその貧しさゆえに資本主義に敗北し、政治体制の終焉をもたらした。20世紀の世紀末には、国家が存立基盤をあいまいにする中での国際化が加速し、帰結としてのボーダーレス化にITが起爆剤となり“ビッグバン”を起こした。世の中の仕組みは連鎖的に革命的な変化を迎えることになったのだ。21世紀は確実に20世紀型モデルの通用しない未知の世紀になった。環境問題、人口増、国家に代わる新たな民俗宗教の台頭、既存ビジネスモデルの崩壊、国家の統制が及ばない資本の動き、国家の防衛の概念を根底から変える国際テロ集団の動き、そして大きく変わる消費行動と世界規模で連動する大衆消費社会。これまでの社会システム、統治システム、経験が通用しない世紀が到来したのである。
矢野社長は言う。「経済界においては、ほとんどの企業が(もちろん私の会社も)この21世紀の引き潮に流されてしまうだろう。引いた砂浜に残れるもの、形を残せるものは数少ないだろう」と。
20世紀の世紀末は遅れてやってきた。今まさに我々も、日本も、世界も、その引き潮の渦中にあるのだ。近代化の中で育んできた我々の英知、自由、平等、権威、価値、信義、秩序といったものがその支えを失いつつある。考えてみれば、川面に漂う上澄みのチリのような政治の世界のゆらぎも、本格的な変化の胎動の余波なのだ。あらゆるものが確実に変わるが、それが予見し得ない時代、そんな時代に我々は生き、そして生き継いでいる。
あなたの周りに「引き潮」に崩れつつある何かの音を聴かないか。
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