盛者必衰の中内劇場
 ダイエー創業者中内さんが亡くなり、政界ご意見番後藤田さんも逝ってしまった。人は老い、いつかは終幕を迎えることになるが、この2人の退場には一抹の寂しさを覚える。

私にとって、とりわけ、中内さんには特段の思いがある。偶然だが、中内ダイエーの出発点となった伝説の「主婦の店ダイエー」を子どもの頃に見た記憶があるのだ。母の実家は三宮だった。小学生時代の夏休みにその実家を訪ねた折に、確かにその店を見た。「安売りではやっている」と言った母方の実家の家人の言葉が、今も耳に残っている。

それからしばらくしてからだと思うが、当時私の住んでいた綾瀬の隣駅の北千住に、ヨーカ堂という衣料を中心とした廉売店が出来て、地元の評判を集めた。母に連れられてたびたび買い物に行ったので、ここは店内の光景まで今でも鮮やかに覚えている。

阪神地区に発祥した「主婦の店ダイエー」は、やがて1兆円の大スーパー「ダイエー」に化ける。北千住のヨーカ堂は、その後ダイエーと2分するビッグストア「イトーヨーカ堂」と、これまた大化けする。当時、今日あることを、たれが思ったか。

偶然ではあったが、日本の流通業に革命を起こした東西の雄に、私は幼少の頃の生活圏で遭遇しているのである。その奇縁のためであったわけではないが、私は商学部に学び、ゼミも流通経済論を選び、就職はデパートかそれとも新興のチェーンストア業界かという大学時代を送った。結局まったく別の編集出版の道を選ぶことになったが、同級生の何人かが草創の頃のダイエーに入社している。しかしながら、そのすべては道半ばで退社して、今は誰も残っていない。級友から聞く当時のスーパーの業務は過酷を極めていた。店長に出世してもそれは変わらない。むしろ過酷になった。売上、収益の実績こそ評価のすべてであり、朝から晩まで馬車馬のように働き続けなければならなかった。挙句に、身体を壊すか、激しい仲間とのポスト競争に破れて、傷心とともにダイエーを去っている。もし、私もスーパーであれデパートであれ、当時の流通業界に進んでいたとしたら同じ運命をたどったに違いない。

そんな個人史があったためか、出版の道に進んでも、私は流通業界、とりわけ、ダイエーやイトーヨーカ堂の急成長ぶりを、眼の端に置き眺めつづけていた。あのダイエーがメーカーの雄、松下電器と大喧嘩し、松下製品を全ダイエーで排除したとき、売上高が1兆円を突破したとき、天下の三越を抜いて流通業界のトップに立ったとき、「あの大阪の主婦の店がついに天下を取ったか」と、目がくらむような思いがしたものだ。

あくことなき成長戦略をとるダイエーは、その後も店舗を次々と拡大、ホテル事業への参入、リクルート買収、リゾート開発、プロ野球参入と、あらゆるビジネスに手を突っ込んでいった。全国の店舗に集まる巨額の日銭と、買いあさった土地の信用をテコに、銀行は湯水のように競って金を注ぎ続けた。が、バブルの崩壊とともにすべてが暗転する。土地が急落し、帳簿には膨大な借入金と金利が残った。図体が大きくなりすぎて、あがけばあがくほど泥沼に落ち込んでいく。右肩上がりの、誰もが同じような物を欲しがる大量消費時代も終わり、なんでもあるが欲しい物が見つからないと、総合大型スーパーの存在そのものが時代遅れとなっていった。小売業界の氷河時代がやってきた。その後は、報道で知るとおりである。産業再生機構入りするまでのおよそこの15年、ダイエーの打つ手はすべて後手に回り、もがけどもがけど、泥沼に沈むばかりであった。

思えば、ダイエーより数年前に、デパートの雄「そごう」も、土地本位主義の出店攻勢がバブル崩壊で裏目に出て崩壊している。オーナー水島一族のワンマン経営が再建の足かせとなった。私事ではあるが、この「そごう」には私の弟が生え抜き社員で頑張っていたが、身体を壊した挙句にリストラされ、最後にはぼろ雑巾のように捨てられた。中内ダイエーの歴史の陰では、栄華と共に、従業員、取引先業者に多大な犠牲者も生んだ。

佐野眞一さんの、評伝「カリスマ」(文庫になっている)は、渾身のノンフィクションであり、フィリピンで生き残って復員した中内さんが戦後の闇市から這い上がり、メーカー支配から消費者第一の流通革命を起こしダイエー帝国を築き上げるまでを記した力作である。中内ダイエーを語りながら、同時に戦後日本を語り、中内とその戦後の光と闇を、見事に描ききって心を打つ。ビジネスを志す若者に一読をお勧めする。(S)