宇宙と般若心経の不思議な符合

 ビッグバン理論によると、我々の棲む宇宙は約137億年前、そもそも何もない(空間も時間もない)ところからプッと極小の一点が生まれ、それがあっという間(指数関数的)に膨れ上がり(1秒以内の出来事)、その後、膨張を続けながら宇宙が冷えるにつれ、星が生まれ、銀河が生まれ、核融合による超新星爆発などを繰り返し、様々な物質元素が生まれ、今日の宇宙を作ったのだそうだ。何もないところからどうして我々の宇宙が生まれることができるのか、トンネル効果のおかげだと説明されてもにわかには理解できないが、理論、観測によっても、そんな風に宇宙は出来たということはほぼ確からしい。
 前にも吐露したが、相変わらず、宇宙とか物理系への関心が深まるばかり(もちろん、サッカーだ、競馬だ、音楽だ、仕事だ、子育てだなんて日常の合間に・・)。
 自分という存在を、疑うこともなく、人生の大半を平々凡々と送ってきたが、いい歳になった今、はて、自分をただの物体として見るとどうなるのだろうと、ふとそんな思いに取り憑かれてしまってからというもの、頭を掻きむしりながら難解な理系の本を読むに連れ、いよいよ人の身体も星のかけらと同じ物質に過ぎないと確信して、大げさながら、人生観の変わる衝撃を受けてしまった。

 物質を細かく見ていくと分子になる。分子は様々な原子の組み合わせ。原子は原子核と電子で出来ていて、原子核はプラスの電荷を持つ陽子と、電荷を持たない中性子がグルーオンというゲージ粒子の取り持つ“強い力”で固く結びついてコア(核)をつくっている。その原子の周りを回るのがおなじみの電子。電子はマイナスの電荷を持っているので、プラスの陽子と電気的に釣り合って安定する。原子核の中の陽子、中性子の数が変わると、高校で習った元素周期表でおなじみの、それぞれに異なった性格を持つ元素になる。同時に原子とパートナーを組む電子の数の違いも、元素の性格を決定する。原子と電子はさらに粒子の根源であるクオークとレプトンという素粒子に行き着く。現在のところ、第1世代から第3世代までに区分けされるクオーク、レプトン各6個が、物質の元になる根源粒子だという。たったの6個!物質の根源は実にシンプルで美しい。もちろん反粒子などの存在はあるが、はしょって言えば、すべての物質、我々人間も、変わらず同じくそんなシンプルな素粒子から出来ているということになる。驚きではないか!素粒子をさらにたどって、実はプランク長さ(それ以上小さく出来ない質量、エネルギーの値)の“ひも”から出来ているという「ひも理論」がこの先に展開されている。この辺になるととても難解だが興味をかき立てられずにはいられない。

 さて、一方で「般若心経」のことである。巷では般若心経がちょっとしたブームだ。いきなり、それが宇宙や物質とどういう関係なの、と思われるに違いない。が、大ありなのだ。物質への関心が高まるにつれ、スーッと吸い込まれるように「般若心経」に関心を抱くようになった。無神論無宗教の、この私が、である。そして目下「般若心経」に心を奪われてしまっている。「色即是空」「空即是色」のあれである。

 この世に形あるものは何もない、時間もなければ空間もない。時間や空間の概念も、実は意識が概念へと移行する時に生まれる産物であり、そもそもそんなものはこの世には存在しない。生もなければ老も死もまたない・・我々凡人の悩みもすべてを包み込んでくれる「般若心経」の語る悟りの境地。とても難解だが、多くの現代人が惹かれる理由もそこにあるに違いない。私はこの般若心経の世界と宇宙の世界との間に不思議な符合(似かよった点)を感じていた。宇宙や物質への関心から入ってついに般若心経に到達した、と言ってもいい。その心境は説明しがたいが、偶然、その辺の機微を、既に著書に現している賢人がいらっしゃった。著名な生命科学者であり「般若心経」の理解者として知られる柳澤桂子さんである。

 その著書「生きて死ぬ智慧」(小学館)の中に、まさに、わが意を得たりと思う一説があるので紹介したい。「色即是空」「空即是色」の下りを柳澤さんはこう読み解く。

「・・お聞きなさい 私たちは広大な宇宙の中に存在します 宇宙では 形という固定したものはありません 実体がないのです 宇宙は粒子に満ちています 粒子は自由に動き回って形を変えて お互いの関係の 安定したところで静止します お聞きなさい 形のあるもの いいかえれば物質的存在を 私たちは現象としてとらえているのですが 現象というものは 時々刻々変化するものであって 変化しない実体というものはありません 実体がないからこそ 形がつくれるのです 実体がなくて 変化するからこそ 物質であることができるのです」

 さらに、こう続く。「お聞きなさい あなたも 宇宙のなかで 粒子でできています 宇宙のなかの ほかの粒子と一つづきです ですから宇宙も「空」(くう)です あなたという実体はないのです あなたと宇宙は一つです 宇宙は一つづきですから 生じたということもなく なくなるということもありません きれいだとか 汚いだとかいうこともありません 増すこともなく 減ることもありません 「空」にはそのような 取るに足りないことはないのです」(以下略)

 科学者ゆえの比喩だが、これほど的確に私の疑問に答えてくれる解釈もまたない。多くの般若心経本の中からこの本に出会ったことに感無量の思いがする。
 現在ベストセラーになっている玄侑宗久さんの「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)もそんな一冊。般若心経の熱心な解説者の玄侑さんは、この著書の中でも物理学と宗教、とりわけ量子力学の記述する世界が般若心経と根底で通ずるところが多いと指摘している。
 自分は突き詰めれば、粒子の集まりで、それが宇宙(空)の中で他の物質と同じように飛び回って繋がっている。般若心経によれば意識はすべてが脳の生み出す幻想。だから「私」は身体を持っているという自己認識にとらわれるが、実は私には実体がない。だから生も始まりではなく死もまた終わりではない。たとえ認識上の死を迎えても、私は変わらず粒子となって空(宇宙)を飛び交っているというわけである。科学者でもある柳澤さんは、物質科学上の事実と般若心経を見事に一つの概念で捕らえている。

 しかし私は、まだまだその境地には至れない。
 今も、そもそも宇宙とは何なのか、始まりがあるのなら終わりもあるのか、どんな形をしていてこれからどうなるのか、所詮粒子の集まりにすぎない人間が何故意識を持つ生物に成り得たのか、我々が想像できる世界は4次元までだが、究極の超ひも理論で説明される10次元という多次元の世界は果たして存在するのか、異次元の向こうにもう一つの宇宙があるのか・・と日長考え込んでしまっている。般若心経の教えからは、それらは意味のない探求と一蹴されてしまうだろう。が、今しばらくその探求の旅は続けて見たいと思っている。(・・もっとも、その探求の果てに般若心経が、雲の上にそびえたつ釈迦の手のように鎮座していた、なんて!)(S)